2012年2月17日金曜日

ADcafe.311 vol.05 レビュー

01.28に行われたADcafe.311 vol.05のレビューを掲載します。
今回のレビューは、青木健さん(PLAY)に書いていただきました。

各発表に対する詳細なレポートとなっておりますので、当日会場に来られなかった方も発表の内容をフォローしていただけるかと思います。
是非ご一読下さい。

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1/28に行われたADcafe.311 vol.05のレビューです。
長くなってしまいましたが、是非皆さんに知っていただきたい内容なので読んで頂ければと思います。

ADcafe.311 vol.05では谷口景一朗さん(日建設計/ADcafeスタッフ)、笠井暁史さん(医師/石巻赤十字病院)、相澤久美さん(建築家/震災リゲイン)+高木伸哉さん(編集者/フリックスタジオ/震災リゲイン)の三組による発表の後、来場者とのディスカッションが行われました。場所は3331Arts Chiyoda。20~30名の方が集まりました。

一人目の発表者である谷口景一朗さんからは日建設設計の同僚の有志グループで取り組んでいる「Run & Escape Map(逃げ地図)」がどのようなきっかけで生まれたかという話から始まり、震災からの長期的な復興フェーズにおける活用の方法、現地自治体とのやりとりを踏まえた上での今後の展望が語られました。

日建設計は震災後、震災復興ボランティアチームを有志でたちあげ、2011年4月には「東北大学生の特別オープンデスク受け入れ」、4月17日は特別オープンデスクに参加した学生らにより被災エリアの震災前の統計データをまとめたリサーチの発表会を兼ねた「東日本大震災の復興について考える公開ブレインストーミング」、被災した気仙沼の高橋工業への「高橋工業募金」など震災復興への初期フェーズでの取り組みが行われました。2012年1月現在、長期フェーズに移行しているいくつかの日建震災復興ボランティアチームの取組みの一つである「Run & Escape Map」は、募金で集まったお金を高橋さん宅で手渡した際に被災地のリアルな話を聞いたのがきっかけとなり、ボランティアチームが調査を進め、被災地に何が役に立ちそうなものを仮説として立てるところから始められました。
今回の震災による津波被害の大きさは1000年に一度といわれるほど甚大なものでしたが、歴史的には30年に一度程度の頻度で津波の被害を受けている地域であることが記録からわかります。明治三陸沖地震で発生した津波によって被害を受けた後、高台移転を含めた大規模な復興が行われましたが、時が経つにつれ海抜の低いエリアへ居住地が徐々に広がり、そのようなエリアが今回の津波でも大きな被害を受けたことがわかります。過去に何度も津波の被害を受けているエリアであるため、過去の津波被害を伝える碑や、文章としての記録、人々の記憶として受け継がれている部分もありますが、時が経つにつれ風化してしまい、教訓が生かされず被害を繰り返し受けてしまっているという現実があります。
このような経緯を踏まえ、「Run & Escape Map」は地域の安全・危険レベルを地図上に可視化することで人命救助に対しより効果的な復興案をハードとして整備するためのツールとして考案されています。具体的には、過去の浸水エリアを地図上にレイヤー状に重ね、安全標高以上の地域をゼロ次避難地域として設定し(住民との話し合いのうえ合意を得ながら)、既存の道路を通って避難ポイントに徒歩43m/分(高齢者の歩行スピード)で到達できる時間に応じて(五分刻み)色分けがされています。「Run & Escape Map」は地域の津波リスクをあまりにもはっきり可視化してしまうという指摘もあったようですが、スーパー堤防を築く案、避難のためのバイパス道路整備案、近道整備案、避難タワー建設案、丘造成案、高台移転案などさまざまな選択肢がある都市計画レベルの復興プランを、それぞれの整備に要する予算、期間に加え、津波による人命被害をどのくらい効果的に抑えられるかという視点から評価を行い、修正、比較検討をすることができます。さらにそれぞれの復興プランの作成過程においても、どこに避難バイパス、近道、高避難タワーを整備するのが効果的かを検討したり、高台避難検討する際に集会所を避難経路上に移転させたり、移転を段階的に行う優先順位を津波被害のリスクが高いところから進めるなど、さまざまなフェーズでその効果を可視化することのできる「Run & Escape Map」を用いることで、住民、行政、専門家の三方に対し開かれた状態でよりきめ細かなプランを作成することが可能になります。これらの手法によって津波が発生した時に避難しやすい街のハードを整備するとともに、谷口さんが何度も念を押されていたように、避難意識を高める訓練、伝承、教育などソフトの部分を同時に充実、連携させ、地域の人々の生活の一部として津波対策を組み込むことが、津波で破壊された街の未来を考えるときに不可欠であるということを考えさせられました。また、建築教育を受けた者たちが都市設計の初期段階からかかわっていくことの大切さ、有効さを彼らの行動力、責任感、誠実さから実例を持って伝えていただきました。
「Run & Escape Map」通称「逃げ地図」は現在も現地自治体、住民とやり取りをしながらのその可能性を探る取組みが継続的に行われているようです。3月にはいくつかの会場で公開展示され、さらにその作成をコンピュータを用いて自動化することで広範囲、多箇所で行い、津波以外の災害リスクの評価も加えるなどして、東日本大震災の被災地での復興施策のデータベース、都市部(東京など)での都市計画のベースマップとする「逃げ地図2.0」として展開させていくことになっているそうです。興味がある方は是非問い合わせてみてください。http://www.ozone.co.jp/event_seminar/event/detail/1275.html

二人目は石巻赤十字病院で腎臓内科医として勤務されている笠井暁史さんです。自らも被災した職員が多く働く被災地の拠点病院が、地震が発生した直後からどのように機能したのかを病院のハード、ソフト双方の視点から発表していただきました。
一枚目のスライドに4/3に震災後初めて休みをとって被災地を回られた時に笠井さん自身で撮られた写真を写し、「これは現実なのか?と思った」、と淡々と語り始められました。映像では繰り返し見ていた被災地にはヘドロを腐らせたような匂いが充満し、トラックや重機の音だけが響く独特の静けさが広がっていたそうです。壊滅的な被害を受けた地域を回られるなかで目の当たりにした津波に飲み込まれた大川小学校では屋上にまで津波が到達し、多くの方がお亡くなりになったそうです。そこで笠井さんが語られたのは感傷的な言葉ではなく、なぜここで多くの方がなくならなければいけなかったのか、どうすれば命を救うことができたのかという、人の命と常に隣り合わせで接している医師としての言葉でした。笠井さんは、同様な規模、地理的条件でありながら、事前の非常通路の設置、ストップウォッチを用いた避難訓練を実施していたことで人的被害をゼロに抑えることができた越喜来小学校の例と比較分析し、「備えがいかに大切か」という発表のテーマへとつなげていきます。
仙台から車、JRで一時間のところに位置する人口15万人程度の石巻市を中心とした石巻医療圏に1つだけある拠点病院の石巻赤十字病院で笠井さんは働いておられます。石巻医療圏にはいくつかの公立病院がありますが、そのほとんどが沿岸部に位置していたため、東日本大震災による津波によってそのすべてが機能しなくなくなり、石巻医療圏21万人の唯一の災害拠点病院として多くの人が石巻赤十字病院に押し寄せることになりました。
石巻赤十字病院は病床数402、医師100名、看護師450名の石巻医療圏で最大の病院で、2006年に現在の場所に新築移転されました。宮城県沖の地震が想定されさまざまな対策が建物の設計段階からとられています。津波の被害も想定されていたため内陸部の東北自動車道に隣接した水田エリアを敷地とし、すぐ近くを流れる旧北上川の増水に備え敷地全体の土盛りが行われました。ハードの対策としては免震構造にし、さらに二重化電源、非常用発電機の設置、二系統水道の設置、貯水、患者用非常食の備蓄などの非常用インフラ対策が行われていました。ソフトでは、大規模な災害実働訓練を自衛隊、消防署と合同で何度も行うなど、災害拠点病院として万全な対策に取り組まれていました。
対策としては万全な取り組みを行っていた石巻赤十字病院が実際にどう機能したかを、震災が起こった当日の様子を記録した10分程度の動画(http://www.youtube.com/watch?v=Pc1ZO7YwcWc)を交え説明していただきました。免震構造であるため、かなり揺れがあるように見えるのですが、建物としての被害はほとんどなかったとのことです。発生後10分もしないうちに訓練通りに対策本部が立てられ、委託職員も訓練を受けていたため職員と協力して手際よく、トリアージに向けて作業が行われたことがわかります。トリアージとは、「人材・資源の制約の著しい災害http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E5%AE%B3%E5%8C%BB%E7%99%82において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること」で、外来待ち合室のイスなど配置を変更することで大量に押し寄せる患者に対応できるように計画されています。トリアージの他にも、酸素吸引を必要とする患者のためのスペース、薬だけを必要とする患者のための薬の処方外来受付、臨時病床など災害時に応急で対応できるように病院は設計されており、事前に行われていたシミュレーションどおりに使われたそうです。しかし、中には医療を必要としないが家が全壊・半壊しまったために病院を避難所として使ってしまう人が増えるなど病院の医療機能に支障をきたすような事態になってしまったため、苦肉の策として食事を一切与えなどの対策をとることで、避難所への人の誘導が行われました。避難所までの移動手段がないことも避難者がとどまってしまう理由であったので、病院が経費を自己負担する形でバスをチャーターしたそうです。一見厳しいようにも見えますが、病院として最優先である医療を途切れさせないための対策がとられました。
病院がその機能を維持するためにはライフラインの少しでも早い復旧・維持が必要となります。笠井さんが専門とされている透析治療では特に大量のリソースを必要とします。透析は腎臓を悪くすると命をつなぐために、週三回一生、続けなければいけません。一回の透析に水18リットル/人、3~4kw/人・時、必要で60床ある石巻赤十字病院では大量の水と電力と透析専用の特殊な器具が必要となります。災害時の透析医療は富士山の山頂で治療を行うようなものだと笠井さんは仰います。しかし、どのような状況であろうと透析をしなれば患者は命を落としてしまうことになります。津波によって生活基盤を失った多くの透析患者に対し透析を行うことが笠井さんたち透析医療者の急務でした。通信手段が限られているなかで、透析を必要とする患者の所在地を把握し、通院のための透析臨時バスをチャーターするなどの対策がとられ少なくない数の人たちの命が救われました。
院内のライフラインの電気・水道・ガスのうち電気・水道は自前の発電装置や貯水によって早い段階で復旧が行われましたが、低体温症の治療などに必要なお湯を沸かしたり、暖房を行うためのガスの復旧には時間がかかり自家発電による電気を使って代替措置がとられました。EVは機能的にはすぐにでも使用可能であったにもかかわらず、法律的問題で再稼働の前に点検が必要で、石巻のEV業者が軒並み被災したために東京からの業者を待つことになり復旧に数日を要しました。震災直後から大量に押し寄せた患者の搬送や、職員、物資の移動にEVを使えないなど大変な苦労があったようです。患者、職員への食事供給は、食材の供給が制限されていたために、配給制となり、一日の食事がおにぎり1つとイチゴ2つというような日が一週間続いたそうです。通信手段である固定電話・携帯・インターネットは数日から一週間程度使えず、衛星電話や石巻防災無線などにより外部との連絡は取れる状態ではありましたが、その利用はごく限られたもので、一般の方は自分や家族の安否を伝えることも救助要請も行えないような状態で、その対策が考慮されるべき点として指摘されました。
透析医療がこのような過酷な状況で破たんすることなく乗り切れたのは、以前から透析ネットワークをつくっていたことが大きいと要因であったそうです。近隣の6施設と透析ネットワークを2007年に立ち上げ、定期的に行われる会合通して医師や技師たちの間で直接コミュニケーションが図られていました。他の医師や技師たちがどのような人間で、何ができるかということをお互いに把握できたことで、震災後すぐに応援の医師たちが駆けつけたちあげた透析の災害対策本部がスムースに機能し、普段は60床で透析患者に対応している石巻赤十字病院で倍の120床での透析をなんとか行うことができたそうです。つまり、自助に加え、共助がうまく機能したことが未曾有の事態を乗り切れた大きな要因であったと笠井さんは語ります。東日本大震災のような大規模な災害が起きた時場合、自治体や国などによる「公助」が届くには数日から一週間程度かかってしまい、直後は「自助」による対応、つまり自立的な判断と行動が必要となります。半日から一日経つと「共助」、つまり自助を連携し「地域力」として事態に対応することが求められます。そのためには日ごろから想定のハードルを下げ想定の範囲を広げできる範囲で備えをし、想定外の事態が起きた時には思考過程・行動基準の標準化によって臨機応変に対応することが有効であると、伝えていただきました。
さらに結びとして重要な問題提起をされました。津波から逃げることができないのは、高齢者や子供や障害をもった人たちだと考えられがちですが、寝たきりの親をもった家族や、保育所の先生、防災関係者、そして医療に携わる医療関係者はたとえ津波が来るとわかっていてもサポートを必要とする患者や家族、児童をおいて逃げることができない、と。石巻市立雄勝病院では事務職員6名は無事助かりましたが、医師2名、看護師24名、患者40名の方々が津波にのまれ亡くなるということが実際に起きました。私たちは私たちの命を救ってくれる方々がこのような境遇にある事実を知り、自分たちの問題として、そのような職務に就く方がどうしたら命を落とさなくても済むのかという方法を考えなければいけません。
「情けは人の為ならず 我人の為辛ければ、必ず身に報うけり」。これは笠井さんの最後のスライドの一文です。情けは人の為ではなく、善い行いはめぐりにめぐっていずれは自分に還ってくるんだよ、という意味の言葉ですが、笠井さんはさらにそのような行いをすること自体が自分を鍛え、成長させていくことなんだと、それぞれの活動を行っている人たちへエールを送り、発表を終えられました。

三組目は建築家の相澤久美さん、編集者の高木伸哉さんに「震災リゲイン」http://shinsairegain.jp/を中心とした「支援者たちを支援する」ための数々の取り組みを発表して頂きました。
同じ建物の中でそれぞれの仕事をされていたお二人が、震災後、自分たちに何かできることがあるのではないかと話をして、情報を編集するための震災情報メディアを4/1に立ち上げられました。震災後、各地で様々な支援活動がすでに行われているような状況で、相澤さんと高木さんはそのような状況に対し、自分たちができることはそのようなさまざまな活動、取組みを見える環境として可視化し、必要なところに必要なものを届け、人と人の活動をつなげていくようなメディアをつくることなのではないかという考えに至ったそうです。 現在ではWeb震災情報メディアとしての「震災リゲイン」の他にも、紙メディアとしてフリーペーパーを発行したり、人と人の間に入って活動を支援する「つなぐプロジェクト」、さまざまな活動を行っている人たちへの取材、その他直接ボランティアを行うなど、多岐にわたる活動を精力的に展開されています。
「震災リゲイン」のホームページの詳しい説明を高木さんにしていただきました。「震災リゲイン」はトップページに「被災地の救援」「復興の提案」「情報の伝達」の3つのカテゴリーが並列されているのが特徴です。多方面での様々な団体の活動が一覧できるようになっており、一目でどれくらいの数の団体がどのようなことを行っているのかがわかるようになっています。それぞれの団体HPへのリンクを集め、個別のページへのリンクをたどることでより詳しい情報にアクセスすることができるプラットフォームのようなウェブサイトになっています。掲載する情報が全方向的でかなりの数であるため、その情報をどのように整理し、可視化するかという試行錯誤が繰り返し続けられているそうです。具体的には、現在トピック別に掲載されている情報を、他分野の活動との関係性を可視化できるようにMAP化したものがあり、試作段階のものを見せていただきました。被災した一つの街をとってみても、実にたくさんの団体、人が復興にむけて活動を行っています。民間企業やNPO団体、政治家や、ボランティアグループ、建築家、地元自治体、大学、などそれぞれの活動がどのような分野で、どのような活動を行っているか、またそれが外部団体なのか、地元団体であるのかなどがわかりやすく、実際に活用しやすいようにデザインされています。他にもTOPICSという欄には震災関係で活動している人に取材にいってその内容がレポートとして掲載、更新が続けられています。このようにさまざまな復興活動を集め1つのウェブサイトにアーカイブとして残していくことは、現在の支援者の支援に役立てられるだけではなく、今後また別の震災などの大規模な災害が起きた時に、どのような活動が必要で、どこがそのようなノウハウや、情報を持っているかを伝えることにつながると相澤さんが付け加えます。
 次に、広報誌のフリーペーパーの説明を編集長である高木さんに続いてしていただきました。ウェブにアクセスしない方にも震災の情報を届けようと紙媒体としてフリーペーパーが発行されました。広報誌10万部を新聞社の協力得て折り込み広告にいれてもらうことでお茶の間まで情報を届けようという試みです。「震災リゲイン」のウェブページのTOPICSの内容が記事として掲載されています。ユニークなのはそれぞれの記事の最後に「買う・寄付・参加」などのアイコンがついていて、積極的に現地に行くことはできないが、何か現地の支援を行いたいと思っているような人たちが気軽に支援を行えるようなきっかけを提供できるようにデザインされていることです。被災地の産品を買える通販をするための方法や、ボランティア受付窓口の連絡先が記載されています。
 続いて相澤さんから「つなぐプロジェクト」についてお話しいただきました。 「つなぐプロジェクト」はその名の通り、何か具体的に活動したいという人と、その時に必要となる物や、場所を提供できる人を直接つないでいこうというプロジェクトです。ADcafe スタッフのもりひろこさんの「tanaproject」はその例の一つです。ラ・ケヤキという場所で相澤さんが行った震災関係の活動報告会でもりさんが手を上げ企画段階の「tanaproject」の支援を呼びかけたことがきっかけとなりプロジェクトがスタートしました。いろんな企業や、材料、人など「tanaproject」を進めていく中で必要と思われるもので足りていないものを、相澤さんが紹介、プロデュースしていくかたちで実現までこじつけ、2012年一月現在までに計8回、東北各地、東京でワークショップが行われました。「つなぐプロジェクト」ではこのような支援者の支援活動を数多く行われています。他には、仙台在住の若手監督二人による映画「なみのおと」の配給協力、日常を失ってしまった被災地の方に対話の場をつくりだすことを目的とした「対話工房」、塩害をうけた田んぼの土をつかって家や倉庫をつくる「土プロジェクト」、仮の敷地に暫定的にしか仮設物を設置できない女川に可動式の宿泊施設をつくる「モバイル・スマイル」プロジェクト、他詳細は省かせていただきますが、「網戸設置プロジェクト」「放射能測定検査プロジェクト」「ハイタイド文具配布プロジェクト」、「東北キャラバンプロジェクト」など幾多のプロジェクトの広報・プロモーション、活動資金の調達、マネージメントなど、支援を実現するための活動をされています。
まだまだ話すことはいくらでもあるよ、という顔の相澤さん。会場は二人の行動力、実行力、瞬発力に圧倒されっぱなしでしたが、このように「震災リゲイン」ではネットワーク上で、「つなぐプロジェクト」では体を張って直接人と人をリンクさせる試みが続けていきますと、高木さんに発表をまとめていただき三組の発表が終了しました。

以上三組の方々の発表のレビューになります。
以下、簡単に個人的な感想を書かせていただきます。みなさんの精力的で、献身的で継続的な活動の数々に圧倒され、同時に自分にできることは何かと考えさせられました。震災からもうすぐで一年が経ちます。この一年でいろいろなことが変わりました。震災を機に始めた活動の延長で勤めていた会社を辞めた人、社内のメンバーで毎週のように集まって自分たちにできることは何かと議論をし、現地に通う若い友人たち、被災地に引っ越した人、実家に戻った人、結婚した人、父親母親になった人、政治家になった人、文章を書いて新しい社会を描こうとする人。この国には人がいます。震災は多くのものを奪い、破壊しました。しかし、同時に以前はなかったものたちが生まれました。この人たちがいる限り私たちの社会はプラスに開かれているはずです。支援が被災者に行き届き、被災者の方たちが日常を取り戻せる日が来ることを願っています。 

青木健 / PLAY